お皿って何?

 きょうは土曜日。歩睦と2人で1日過ごす日だ。

 午前中に洗濯と、お流しと、掃除を終えると、もうお昼時。歩睦の食事を準備して、自分の昼食を準備して、ようやく一息つけるのは午後1時を回る。天気がよければお出かけだけど、最近は雨が多くて、家にいることになる。こうなると、ちゃんと昼の間に遊ばせて、疲れさせないと、夜の寝つきが悪い。保育園でいかに思いっきり遊んでいるか、こんなところでもわかるというものだ。

 

 最近の2人遊びは、家じゅう使ってのかくれんぼ。

 まずは、廊下の端っこにいる歩睦に向かって、「おーい、あゆくーん」と呼びかけ、さっと部屋に入って身を隠す。するとこちらに気づいた歩睦が、キャッ、キャッ言いながら、猛烈な勢いでハイハイをしてくる。途中で立ち止まって、方向を確認したり、別の扉が気になってそちらに注意が行ってしまったときは、も一度「おーい、あゆくーん」と呼びかける。

 まもなく部屋の入り口に到着。まずは首を伸ばして、部屋の中を確認。(このタイミングでも、扉の陰に隠れながら「おーい、あゆくーん」と声をかけておく)。声の方角に、パパらしきものを発見。気勢を上げながら突進。パパの足元に到着。首を伸ばして…。「わっ、見つかっちゃった!それっ、逃げろー」(別の部屋に移動。以下繰り返し)。

 かくれんぼをしていて気づいたことが1つある。歩睦は顔を見てはじめて、人を認識するということ。どういうことかというと、たとえばカーテンの後ろに隠れていた場合、体の一部が出ていても、それと気づかずに探し続けることがある。また、体全体を発見しても、後ろ向きの場合は必ず前に回り込んで確認しに来る。つまり、顔を見て始めて、かくれんぼが完了するというわけだ。朝寝ている時のいたずらも、必ず顔をめがけてくるし、動物の赤ん坊が、母親の顔を、2つの眼球(2つ並んだ黒い丸)で認識するというのもわかる気がする。

 

 認識という点では、もう1つ面白いことがあった。

 歩睦の食事で、手づかみを解禁したことは以前も書いた。食事どきになると彼の目の前には、お皿に盛り付けられたおかゆやにんじん、ジャガイモが並ぶ。大きさは歩睦のつかみやすい程度に切り分けられており、気が向けば、歩睦はそれを口に運ぶ。もちろん気が向く時間はそう長くはなく、大半は両手で握りつぶしてみたり、皿ごと振り回してみたりと遊んでいる。

 そんな中で、歩睦がよくやるのが、皿からテーブルに食べ物を並べていくこと。ただ並べるだけではなくて、並べた食べ物をすぐに食器に戻したりしている。当然それも、気が向けば口に運ばれるわけだ。もちろんテーブルは毎回きれいに拭いてあるので問題ないのだが、はじめはなんだか汚い気がしてやめさせようと試みた。

 試みていたのだが、それが無理だとわかったところで、あることに気が付いた。それは歩睦にとって、皿もテーブルも、機能的にあまり変わりがないということだ。食べ物を置く場所、という点で両者はほとんど遜色ない。唯一液体が入るかどうかという点で差が出るだけだ。

 食事どきに展開する光景は、彼にはとても刺激的で、創作意欲(?)をはじめとした、さまざまな好奇心を満たしてくれているに違いない。彼の視点からは、食卓に上っているものはどんな風に見えるのだろうか?

 

「食べられるもの」と「食べられないもの」の2種類?

「つかんで振り回せるもの」と「つかめないもの」の2種類?

「たたくと音が出るもの」と「音が出ないもの」の2種類?

「びちゃびちゃにこぼれるもの(液体)」と「ぐちゃぐちゃに潰れるのも(個体)」の2種類?

 いずれにしても、大人のわれわれが見ているそれとは、かなり異なる世界であるのは間違いがない。なんだかちょっと楽しそうだな。

 

 とそのとき、彼の左手がパーンと器を払った。

 「ガシャーン!」ちょっと油断したほんの一瞬の出来事だったが、ガラスの食器が宙を舞った。これで午後の仕事がまた増える。「ちょっと楽しそうだな」なんて、誰だよ、そんなこと言ったの…。

 

しんどい運動会

f:id:DownssyndromePapa:20201031094804j:plain 去る日曜日は、朝から降り続いた雨が夕方になってようやく上がり、あゆむと妻との3人で、ちょっと遅めの散歩に出た。

南武線をこえて、多摩川までぶらぶら。1日中家でゆっくりしたせいか、それとも少し長めのお昼寝のせいか、あゆむはすこぶる機嫌がいい。ベビーカーに座り、前にある安全バーにつか まって、体を上下に揺らしている。ときおりこちらを振り返って、ニコッとする。3人でこうして歩くのは、しばらくぶりかもしれない。簡単な買い物を済ませて家路に着くと、妻が「コーヒーでも飲んでく?」と誘う。

休日の夕方のコーヒーショップは、思いのほか客がいた。妻に注文を頼んで、あゆむと2人で席に着く。自分は椅子に、あゆむはベビーカーで、向かい合う。そういえば腕が重い。昨日の綱引きが今になって効いてきたようだ。1回戦で負けたのに筋肉痛な んて、かなり運動不足だな。ライオン組のあのお父さんたち、あれ、反則的な強さだよなあ…。

保育園の運動会は、子どもと離れて過ごす時間が多い共働き家族にとって、大切なイベントだ。日ごろ気づかない成長を感じたり、同じ組のお友達との関係が見えたりするし、張り切っている先生方も頼もしい存在だ。今年の運動会は、「宝物を捜す冒険」というテーマが設定されていて、ストーリーに合わせた大道具を見るのもまた楽しい。

競技のほうは扱近の傾向なのか、徒競走のようにはっきり勝ち負けが決まる種目は少なく、1人ひとりが障害物を越えていくとか、音楽に合わせて踊るとか、みんなが楽しめるものが目に付く。あゆむのいるひよこ組の出し物は、「たまごのお船でぎっちらこ」。子どもと親がペアになって、音楽に合わせて踊るもので、赤ちゃん体操を思い浮かべてもらえばいい。親子のふれあい体操、といったところだ。

年が上になるにつれて鉄棒につかまったり、跳び箱を越えたり、それなりにハードな競技も登場するものの、どの子も上手にこなしていく。両親参加型の種目も多く、子どもたちの表情はそこぬけに明るい。やっぱり体を動かすのって、基本的に楽しいのだ。そんなことを考えながら、ふと不安がよぎった。

来年、再来年、あゆむはああいった競技に参加できるのだろうか?みんなと一緒に跳び箱を越えられるようになるのだろうか?どこにも居場所がなくて、つらい思いをしないだろうか? と。

自分は小学校の6年間を通じて、体育の成績は3か4。逆上がりや2重飛びはできたけど、バスケットやサッカーでゴールを決めた記憶はほとんどない。まあ、そこそこといった感じだった。 残念なことに小学校時代は運動ができる奴が、いやもっといえば足の速い奴が、圧倒的にもてた。そんな彼らが最も光り輝くのが、運動会。

クラス対抗リレーは、各組から10名の男女が選りすぐられ、クラスの威信をかけて争そわれた。「リレーの選手」は、足が速いことの代名詞だったし、アンカーといえば、完全にヒーロー扱いだった。

徒競走では、1等は赤いリボンがもらえた。1年中、色があせるまで、そのリボンを帽子につけていた奴の顔を今でも思い出す。当時の赤いリボンは、欲しくても手が届かないステータスだった。

リレーの選手になったことは一度もなく、徒競走では2位すら取ったことがない自分が、では、運動会が嫌いだったかというとそうでもない。足の速い彼らのことを、ときに妬ましく思いながらも、クラス対抗リレーは一生懸命応援した。トラックを疾走する彼らの姿にあこがれていたのは、紛れもない事実で、そしてその活躍はやっぱりドキドキした。

そもそも運動会って、徒競走だけじゃなかった。クラスみんなで練習したソーラン節や、夜遅くまで残って作った大きなパネルに入場門、そして何より、当日両親が見に来てくれることが気恥ずかしくも嬉しかったっけ…。

「コーヒー、どっちがいい?」気が付くと、妻がトレイをテーブルに置くところだった。「ありがと」と、小さいほうを選ぶ。「腕痛いの?筋肉痛でしょ?」「あたり」自然と話題は運動会に。

「それにしても、あゆむにとっては試練よね」「そうだね。まあ、さっそく社会勉強ということで」「毎年応援に行こうね」「そうだね、みんなで行こう」

あゆむは自分のペースで成長する。きっと同い年の子とは、少しずつ差が開いていくはずだ。そしてそれは大人になっても同じこと。違いは違いとして、差異は差異としてしっかり受け止めよう。しんどいけど、それが大事。そうして、だんだんできることが増えていく。

成長するって、筋肉痛みたいなものかな?筋トレの翌日は、筋肉痛が残る。でもそれは、より丈夫な筋肉ができるための痛み。誰もが通る道。運動は楽しみながらやるもの。目標がある筋トレは、それなりに充実感がある。仲間と一緒なら、なおさらだ。あゆむにもきっと、いい友達ができるだろう。筋肉痛もまた楽し、だ。

だけど、だけど、30過ぎての筋肉痛は、ただの運動不足。 だって、綱引きたったの1回だけだもの。月曜日の仕事に響き ませんように…。朝起きたら消えていますように…。痛みに弱いパパでした。

うんちは汚い?

突然ですが、うんちって汚いと思います?そりゃあ汚いだろうって?そう、もちろん汚いですよね、もちろん。

赤ん坊がうんちをどこにするかというと、そう、オムツですよね。で、そのオムツを取り替えるのは、当然親なわけです。広岡家では、オムツは紙と布の併用で、お出かけ時や夜など取り替える間隔が長くなる時は紙、それ以外は布オムツで対応しています。

紙おむつの場合は、包んでビニール袋に入れて捨てるんですが、布の場合はちょっと大変です。布ですから使い捨てじゃないでしょ、だから洗うわけです。トイレにさっと流して、あとはバケツにつけおき、その後手洗いします。f:id:DownssyndromePapa:20201030075419j:plain

まあ、慣れです。はっきり言って、慣れます。ほかにやりようがないですから。夏は水が冷たかったりして、いいこともあります(ちょっと強引)。

あゆむの場合は、毎日お通じがあります。この10月で1歳半なので、540回。そのうち半分弱は自分がオムツを換えているとして、ざっと200個のうんちを見ているわけです。うんちは成長します。

生まれたばかりの赤ん坊の便ってどんなだか、ご存知でしょうか?(もしくは覚えていらっしゃるでしょうか?)そう、ほとんど液体で、色も黄色なんですね。それが大きくなるにしたがって、多少の粘り気が見られるようになり、ペースト状になり、軟便になり、そして大人の便に近づいていくわけです。もちろん時々の体調により、色や形、においはさまざまです。病気で入院したときには、お腹に入ったウイルスのせいで酸っぱいにおいのうんちが出ていました。

うんちって、本当に毎日違います。ちょっと体調が崩れると下痢気味になり、離乳食が消化できないと、にんじんがそのままの色で出てきます。うんちによって、体調がわかり、あゆむの体の中も想像できるんです。赤ん坊が、だんだんと食べもののレパートリーが増えていくのは、つまり内臓がさまざまな食物を消化できるようになる過程なわけです。うんちの成長は、イコール体の成長なわけです。

ねっ、そうやって考えると、うんちも一概に「汚い!」とも言えないじゃないですか。

それから鼻水ですが、これははっきり言いますけど、汚くないです。まず、赤ん坊は自分で鼻がかめない。これって、乳飲み子にとってはかなり重大なことです。母乳やミルクを飲む時、赤ちゃんは相当の力で吸い付いているのですが、これが鼻が詰まっているとうまくできない。大人であれば鼻をかめばよいわけですが、赤ん坊はこれができない。で、どうなるかと いうと、そのまま飲もうとし続けて、息ができなくて、苦しくなって、泣くわけです。

こうならないように、赤ちゃんの鼻水を吸い取ってあげなきゃいけないわけです。どうやるかというと、赤ちゃんの鼻にロをつけて思いっきり吸い込んであげる、ただそれだけです。簡単です。でも、この簡単なことが、初めはちょっと抵抗があって、できないんですよね。

今になって振り返るとなにを躊躇してたのかなって思うのですが。だって、目の前で子どもが苦しんでいるのですから。

とまあそんなわけで、一般に汚いといわれていることも、ときと場合によっちゃあそうでもないなあと思うのです。これまでの思い込みや、自分の中の規範、判断基準が変わっていく、これも子育ての醍醐味かもしれません。

地上22cmの世界

時刻は、朝7時。場所は、うちの中で最も落ち着く個室空 間。先ほどからの努力のかい空しく、なかなかお通じがこない。

よっしゃ、もうひとふんばり! と、そのとき、扉の下から小さな手がひょっこり顔を出した。 トイレまで入ってくるとは、うるさいやつ。それにしても扉と床の間に、そんな隙間があったなんて…。

あゆむの視線の高さは、だいたい地上20から25cmで、われわれ大人が過ごしている世界とはかなり違う。

先日も、いつもはあまり使っていない書斎兼物置部屋でゴソゴソやっていたと思ったら、封筒の束を持って廊下に出てきた。どうやら戸棚の一番下の隙間に挟まっていたもののようなのだが、低い視線だからこそ見つかるものもあるのだなあと感心した。

ちなみに最近のお気に入りを並べてみると、コンセントから延びるコード(地上19cm)、電話線(同18cm)、ビデオデッキとその上においてあるリモコン(同35cm)、リビングにある料理の本(同3cm)、ベランダ(同マイナス18cm、一度落ちたことあり)である。彼の世界がだいたい想像できるかと思う。

もうひとつ、あゆむが気になってしょうがない場所が卓袱台だ。 リビングにおいてある卓袱台は高さが35cmあり、あゆむは全体を見渡すことはできない。彼の視線では、そこに何かが置いてあることは見えていて、それが食べ物をはじめとしたかなり興味深いものであることは知っている。

この間は、ちょっと目を話した隙に卓袱台の上のコップに手を伸ばし、何とかつかんで引き摺り下ろすことに成功した。中にはお茶が入っていて(幸いそれほど熱くはなかった)、あゆむは頭からかぶったのだけど、その得意そうな顔といったらなかった。そんなわけで、わが家の卓袱台では、危ないものはへりから離して置くことにしている。

卓袱台ついでに食事の話。あゆむが食卓に着く際に使っているのが、木で造った子ども用の小さな椅子。これ、療育センターの先生と相談して、なかなか座位が保てないあゆむ用に、知り合いに頼んで造ってもらったものだ。ちょうどお尻がすっぽり収まる幅になっていて、左右にぐらぐら揺れずに座っていられる。これのおかげで食事がずいぶんと楽しくなった。

最近では、右手につかんだバナナを左手に持ち替え、さらに右手に持ち替えなおして、ニギニギしている。かと思うと、つかんだバナナを思いっきり握りつぶし、指と指の間からニュルニュル出てきたものを口に運ぶ。それに飽きると両手を振り回し、そこらじゅうに投げ散らかす。とにかく食事中は片時も落ち着く暇がないのだが、本人はいたってご機嫌である。

両手が自由に使えるのが嬉しくてたまらないようにも、また、いつも下から覗き込んでいる卓袱台を、上から見下ろせて楽しいようにも見える。視線が変わると、世界が変わるわけですね。

と、そんなわけで、自分も廊下に寝ころんでみる。 ヒンヤリしていて気持ちいい。 ごろん、仰向け、ごろん、うつ伏せ、ちょっと硬いのは難点だけど、夏は冷たくていいかも。

そのままほふく前進してみる。あゆむの様に素早くは動けない。 廊下からリビングへ移動。なるほど、こんなふうに見えているのか。たしかに卓袱台の上はよくわからない。ベランダに向かう。途中、ビデオの横を通過。おやスイッチが入れっぱなしだ、消しておこう。窓のところまで来た。鍵が閉まっていて開かない。当然、鍵には手が届かない…。

いつも生活している部屋が、こんなにも違って見えるのは、ある意味で驚き。地上22センチの世界。この視点からしか見えてこないものがあるんですね。一番よく見えたのは…、やっぱホコリかなあ。もっと頻繁に掃除したほうがよさそうだな。今回も反省して終わります。f:id:DownssyndromePapa:20201029074243j:plain

肺炎で3週間の入院

f:id:DownssyndromePapa:20201029075705j:plain
「ポタッ、ポタツ、ポタッ」

針の先からしずくが落ちる。

腕の中にはあゆむがいる。

「ポタッ、ポタッ、ポタッ」

1時間に40ミリリットルのスピード。

「ポタン、ポタン、ポタッ」


時刻は午前3時。ビニールの袋の中には200ミリリットル残っているから、この点滴が終わるのは…。朝の8時か。窓の外に、丘の上の浄水場が見える。丘のふもとから自動車が坂を上っていく。ひときわヘッドライトが明るく輝く。

「ポタツ、ポタン、ポタッ」

あゆむはようやく浅い眠りに着いたところだ。肺炎になり、38度の熱が続いていて、肩で息をしている。本当につらそう。ベッドに寝かすとすぐに目を覚ましてしまいそうで、少し落ち着いていることだし、このままもうしばらく抱いていよう。

「ポタッ、ポタッ、ポタッ」

それにしても、こんなことでこれから先やっていけるのだろうか?肺炎が良くなっても、また別の病気にかからないともいえない。こんなに体の弱い子なんだから、保育園は無理なのかなあ…。仕事辞めて、あゆむにしっかり付き合う人生もあるかもなあ。別に仕事では、自分の代わりがいないわけでもなし…。

「ポタッ、ポタッ、ポタッ」

針の先からしずくが落ちる。

1時間に40ミリリットルのスピード。

腕の中のあゆむは、穏やかな寝顔。


高熱に咳が続き、ミルクを飲んでもすべてもどしてしまうあゆむは、誰が見ても本当に可哀そうで、痛々しく、この闘病生活でなんと体重を1kgも減らした。もとが7kgからの減だから、あゆむの体にかかった負担は相当のものだっただろう。

午前3時の病室で点滴の針を眺めながら、考えたことは、その時点での正直な気持ちだった。肩で息をしながら、ようやく眠りについた子どもの顔を見ていたら、誰だって、仕事よりも大切なものがあることを確信する。

結局、あゆむの入院生活は、間に数日の退院を挟み、都合3週間におよんだ。入院中は、基本的に妻が病院に泊まりこみ、 自分は家と職場と病院の往復をくりかえした。そして何日かは 役割を交代して、ときに妻が仕事に出た。

さらに、こんな大変なさなかにもかかわらず、自分自身、風邪で高熱を出しダウンしてしまう始末。両方の親はもちろんのこと、兄弟、従兄弟、伯母、果ては近所のおばさんまで、頼めるところにはすべて頼んで、何とか乗り切った。当然職場、とりわけ妻の職場には大きな迷惑をかけることになった。

そんなこんなを乗り越えて、あゆむは、数日の自宅療養期間を経て保育園に復帰した。妻は3週間のブランクを埋めるべく、休日返上で14日間連続で出勤し、必死で仕事に打ち込んでいる。自分はというと、なかなか仕事のペースが掴みきれず四苦八苦しているのだが、今回の入院騒ぎで良かったこともあった。

これまで利用していた「部分休業制度」に加え、「育児のための特別休暇」「子どもの看護のための特別休暇」、さらには、健康保険組合から差額ベッド代の半額給付まで受けられることがわかった。これらは自分のことを心配して、職場の人が調べて教えてくれたものだが、その他にも仕事面でのフォローもありがたかった。

それにしても、子どもを抱えた家庭では、どこも似たような経験をしてきているのでしょうか。みなさんの子育てはどんなですか?やっぱり入院の1つや2つは当たり前に乗り越えてきているのでしょうか。

そうやって丈夫になっていく?のかなあ?? 健康って、ほんっっと、大事ですね(反省を込めて)。

妻には負けない!

中学に入って、自分の死について考えることが多くなった。 特に理由はない。若いときにはよくありがちな、命の揺らぎと でもいうのだろう。ふとした瞬間に、絶体絶命の場面を想像して、そのとき自分が何を思っているのか考えた。ビルから落ちていく瞬間も、病気でベッドの上で看取られる瞬間も、凶刃に倒れる瞬間も、必ず最後の言葉は決まっている。「お母さん!」だ。

子どもと母親の関係は特別だ、と言われる。とりわけ自分の場合は小さな頃から体が弱く、喘息の発作で入退院を繰り返していたからなおさらそうだと思う。大学に入学する頃まで、因ったときにはよく母親の顔が思い浮かんだものだ。世に言う、マザコンというやつだ。

で、ここからが少し屈折している。マザコンである自分を認識しながらも、そして母親に対して絶対の信頼を置きながらも、自分はそうはなりたくないと思っていた。「そう」ってどういうことかというと、母親に子どもを取られてしまうような、そんな父親になりたくなかったのだ。つまり、自分の子どもの最後の言葉は「お父さん!」であってほしいのだ。

さて、自分の腕の中に赤ん坊がいる。時計の針は夜の9時を回った。いつもならばとっくに寝ている時間だ。ところがこの赤ん坊は、父親の顔を見ては、大きな声で泣き喚いている。保育園でたっぷり昼寝をしてきたせいか、それとも虫の居所が悪いのか、全然眠る気配を見せない。かれこれ30分も寝かしつける努力を続けているというのに、泣き声はますます大きくなるばかりだ。

ふと目を上げると、妻が側に立って、手を広げている。(こち らへよこせということか?)赤ん坊も妻の顔を、目で追っている。(あっちへ行きたいということか?)ここで渡してしまっては、負けを認めることになるが......。

5分後、妻は勝ち誇ったように、寝室から出てきて言った。「あゆくん、やっぱり、ママがいいんだって」。こんなはずでは…。

ゴールデンウイークは、職場には少々迷惑をかけたけど、しっかり10連休を取って、妻の実家に遊びにきた。くる日も、くる日も、あゆむと一緒。朝起きてから夜寝るまで、ミルクを飲ませるのも、夜寝かしつけるのも、できる限り妻には渡さない。

保育園の送り迎えは、通勤時間の都合上、ほとんど妻にまかせっきりになる。勢い、あゆむと一緒に過ごす時間は妻のほうが長くなり、最近、寝かしつけるときの成功率が目に見えて下がってきているのだ(普段の日は、自分と妻が半々で受け持っている)。ゴールデンウイークで取り戻しておかないと、この先が思いやられる。

今日はゴールデンウイーク最終日。努力の甲斐もあって、ここ数日のあゆむは、お父さんと寝ることに何の疑問も持っていない様子。うーん、いい傾向。つい1時間前も、自分が寝かしつけてお昼寝をさせたばかりだ。

「うぇーん、うえーん」。おっ、あゆむが目を覚ました。そf:id:DownssyndromePapa:20201027074659j:plainろそろお腹がすいたのかな?そういえば、泣き声も、よく聞くと「おと一さん、おとーさん」って、呼ばれているような気がしてきたぞ!?f:id:DownssyndromePapa:20201027082735j:plain

妻には負けない!

中学に入って、自分の死について考えることが多くなった。 特に理由はない。若いときにはよくありがちな、命の揺らぎと でもいうのだろう。ふとした瞬間に、絶体絶命の場面を想像して、そのとき自分が何を思っているのか考えた。ビルから落ちていく瞬間も、病気でベッドの上で看取られる瞬間も、凶刃に倒れる瞬間も、必ず最後の言葉は決まっている。「お母さん!」だ。

子どもと母親の関係は特別だ、と言われる。とりわけ自分の場合は小さな頃から体が弱く、喘息の発作で入退院を繰り返していたからなおさらそうだと思う。大学に入学する頃まで、因ったときにはよく母親の顔が思い浮かんだものだ。世に言う、マザコンというやつだ。

で、ここからが少し屈折している。マザコンである自分を認識しながらも、そして母親に対して絶対の信頼を置きながらも、自分はそうはなりたくないと思っていた。「そう」ってどういうことかというと、母親に子どもを取られてしまうような、そんな父親になりたくなかったのだ。つまり、自分の子どもの最後の言葉は「お父さん!」であってほしいのだ。

さて、自分の腕の中に赤ん坊がいる。時計の針は夜の9時を回った。いつもならばとっくに寝ている時間だ。ところがこの赤ん坊は、父親の顔を見ては、大きな声で泣き喚いている。保育園でたっぷり昼寝をしてきたせいか、それとも虫の居所が悪いのか、全然眠る気配を見せない。かれこれ30分も寝かしつける努力を続けているというのに、泣き声はますます大きくなるばかりだ。

ふと目を上げると、妻が側に立って、手を広げている。(こち らへよこせということか?)赤ん坊も妻の顔を、目で追っている。(あっちへ行きたいということか?)ここで渡してしまっては、負けを認めることになるが......。

5分後、妻は勝ち誇ったように、寝室から出てきて言った。「あゆくん、やっぱり、ママがいいんだって」。こんなはずでは…。

ゴールデンウイークは、職場には少々迷惑をかけたけど、しっかり10連休を取って、妻の実家に遊びにきた。くる日も、くる日も、あゆむと一緒。朝起きてから夜寝るまで、ミルクを飲ませるのも、夜寝かしつけるのも、できる限り妻には渡さない。

保育園の送り迎えは、通勤時間の都合上、ほとんど妻にまかせっきりになる。勢い、あゆむと一緒に過ごす時間は妻のほうが長くなり、最近、寝かしつけるときの成功率が目に見えて下がってきているのだ(普段の日は、自分と妻が半々で受け持っている)。ゴールデンウイークで取り戻しておかないと、この先が思いやられる。

今日はゴールデンウイーク最終日。努力の甲斐もあって、ここ数日のあゆむは、お父さんと寝ることに何の疑問も持っていない様子。うーん、いい傾向。つい1時間前も、自分が寝かしつけてお昼寝をさせたばかりだ。

「うぇーん、うえーん」。おっ、あゆむが目を覚ました。そf:id:DownssyndromePapa:20201027074659j:plainろそろお腹がすいたのかな?そういえば、泣き声も、よく聞くと「おと一さん、おとーさん」って、呼ばれているような気がしてきたぞ!?